2013年2月16日土曜日

再開した旅館「宝来館」


 7、8日は釜石市の根浜海岸にある旅館「宝来館」(http://houraikan.jp/)に宿泊した。4階建てのこの旅館は2階まで津波に浸かったが、その直後避難所になって120人余が半月だけここで生活した。
 元気の固まりのような女将岩崎昭子さんは津波が押し寄せる中、「早く、早く逃げて」と叫んでいるうちに自分が津波にのまれたが、なんとか裏山に逃れ、九死に一生を得た。
 再開に向けて改修工事真っ盛りの2011年11月、2回目の東北支援の際に、工事関係者が引き上げた夜になると人気のまったくなくなるこの旅館に私たちは泊めてもらった。
再開に向けて改修工事中の宝来館(2011.11月)
そして、昨年の1月ようやく旅館が再開できた。被災者でもある番頭の伊藤聡さんは、震災後NPO法人ねおすのスタッフとして仮設などの被災者支援に活躍。現在は「三陸ひとつなぎ自然学校」を立ち上げ、地域の子どもたちの学び場づくりや「復興ツーリズムツアー」に取り組んでいる。この日も県外からのボランティア10数人の参加する「釜石おかえりなさいツアー」が行われ、女将岩崎さんの震災語り部に参加者が耳を傾けていた。
 私たちは2日間、松林の向こうに大槌湾の静かな海を見ながら、三陸の海の幸をふんだんに使った旅館の料理を堪能した。
 
静かな佇まいの大槌湾

美しい大槌の自然


「暖かい北海道に帰れる」

6回目の東北支援活動を終えて、2月10日、花巻空港発札幌行きJAL便の機内に向かって通路を歩きながら、思わず出た言葉が「暖かい北海道に帰れる」だった。それほどに冬の東北、大槌町は寒かった。
 屋外は北海道の方が寒いのだろうが、屋内はコタツにポータブルストーブだけ。住宅の機密度、断熱性もだいぶ違う。暖かいのはコタツに入れている足だけで、上半身は寒い。同行したNさんは、防寒着を着て布団に入った。東北の人には当たり前の暮らしだが、北海道人にとってはきびしい。これは9日、個人宅に泊めていただいたときの話し。

大槌を終の住処と定めて

9日に泊めていただいた山崎盛(さかり)さんは70歳。新日鉄釜石を40数年勤め上げ、定年退職後の人生を送っているさなか、大津波に襲われ、大槌町桜木町の自宅の1階が浸水した。花巻に避難する間もなく妻を病死で失い、2重の失意の中、ゆいっこ花巻のサポートに心身ともに助けられたという。
 近所の家はみんな流されたが、山崎さんの家だけは土台と柱がしっかりしていて残った。資材不足と職人の確保できず、改築に1年1ヶ月かかったが、昨年夏完成し、花巻から戻った。3人の子どもたちは家族を持ち、関東や下関に住んでいるが、それぞれの部屋を用意して孫を連れて帰ってくるのを心待ちにしている。いつ再び津波が襲ってくるか分からないが、終いの住処として選択した山崎さん、ふるさと大槌の自然と風景が自慢であり、誇りでもあるようだ。寒い部屋の中で、山崎さんの心の暖かさだけは充分、伝わってきた。

浪板海岸から船越湾を望む(山崎さん推薦の場所から)



むすびば<気功チーム>東北支援Ⅵ in 岩手県大槌町


1年3ヶ月ぶりの大槌町

むすびば<気功チーム>は2011年4月末に第1回目の被災地支援活動を行って以来、5回にわたり岩手県と福島県で活動を展開してきた。6回目の今回は岩手県大槌町に入った。大槌は1年3ヶ月ぶり。リーダーの小山内和子(ハーモニー気功会代表)とメンバーの難波芳子、富塚廣は過去2回の大槌町での活動メンバーでもある。
 東日本大地震により大槌町は町の大半を津波に襲われ、その後の火災もあって、死者・行方不明者数は1,300名を超えた。これは陸前高田町に次いで、県下2番目の被害規模である。
当時の大槌町安渡地区
震災直後から安渡小学校の校庭にテントを張って寝泊まりしながら、安渡地区で支援活動を展開していた「ゆいっこ花巻」の増子義久さん(http://samidare.jp/masuko/ 花巻市議会議員)たちのお世話で、私たちは2011年4月下旬に初めて安渡地区の避難所に入った。大槌町の町はコンクリートの建物以外、跡形もなく流され、瓦礫の山が延々と続く光景に言葉を失った。  
 避難所となった安渡小学校の教室と体育館には、所狭しと被災者がぎゅう詰めになっており、2ヶ月近くに及ぶ避難生活で心身ともに疲れている様子だった。そこでの「健康棒ワークショップ」は大好評を博し、「また来てね」と言われることも度々だった。

人口の4割がいまなお仮設住宅住まい

 大槌町には現在48カ所の応急仮設住宅があり、4,769人(2012.11.30現在)もの人がいまもなお生活している。その数は人口13,000人の4割にもおよぶ。
 私たちの今回の活動は、仮設住宅での「健康棒ワークショップ」とともに、昨年11月福島県飯舘村で実施した「健康棒楽々マッサージ指導員養成講座」を大槌町でも実施することだった。

2日間にわたり56名が参加した指導員養成講座

2月7日は城山公園にある中央公民館で大槌町社会福祉協議会と共催による生活支援相談員のみなさんを対象にした「指導員養成講座」を実施した。城山公園は町の中心部が見渡せる高台にあり、震災時ここに避難して助かった人も多い。
 生活支援相談員は町内の仮設住宅を訪問して、悩みごとの相談にのったり、要望の把握、介護・福祉サービスの利用、集会所などを利用したサロンづくりなどの活動を行っている。その相談員のみなさん24名(内男性4名)が参加してくれた。
 養成講座は、健康棒楽々マッサージと楽々ストレッチを各パート毎に一通り学んでいただき、後半はグループ毎に各パートを振り分け、受講者が講師になって全員の前で発表する。間違ったりしながらもみんなの前で発表することでマスターできる部分がある。こうして最後に指導員の認定証が小山内代表から授与される。

 翌日は、大槌町福祉課健康推進班との共催による「指導員養成講座」。大槌町さわやかウォーキングの会(28名)と大槌町食生活改善推進員団体連絡協議会(8名)からなる32名の健康推進員のみなさん(全員女性)が参加して、実施した。

4カ所で健康棒ワークショップ 

健康棒ワークショップは私たちの支援活動の原点ともいえる安渡小学校応急仮設住宅はじめ、小鎚第4仮設のエコハウス「おおつち」と高齢者グループホーム「エールホーム」、そして「サポートセンター和野っこハウス」(恵水溝仮設)の4カ所で実施した。
 安渡小学校はグランド一杯に仮設住宅が建設され、安渡小の子どもたちは統合した学校に移った。8日午前中、大地震以降3回目の健康棒ワークショップを行った。なつかしい人たちとの1年3ヶ月ぶりの再会。90歳の男性も元気に参加した。
 9日は、小鎚第4仮設のエコハウス「おおつち」(参加者18人)と高齢者グループホーム「エールホーム」(同12人)。平地が少ない大槌町は二つの川、大槌川と小鎚川の上流に沿って仮設住宅が造られた。狭い山間の田畑や空き地に造られたのでどの仮設住宅も規模は小さい。


 小鎚川上流の小鎚第4仮設、エコハウス「おおつち」で、私たちは安渡地区の地元料理「ごまごはん」とけんちん汁を参加者のみなさんといっしょにご馳走になった。「ごまごはん」は運動会のときなどに作るご馳走。安渡の人はおにぎりにしても食べる。みなさんの年齢を聞くと80歳前後の方が多い。
続く「エールホーム」には、98歳の方が参加した。聞くところによると、息子夫婦を津波で失い、天涯孤独の身になってしまったそうだ。ここでは前日の健康推進班の指導員養成講座の受講者がもう少し勉強したいと、また養成講座に参加できなかった健康推進員のみなさんら5名が参加してくれた。
 翌日は初めて訪問する「和野っこハウス」(参加者9人)。大槌川に沿ってクルマで20分ほどの上流にある。周囲の仮設住宅は300戸を超えるというから町内最大規模だ。「和野っこハウス」は大槌町から委託を受けて、大槌町社協が運営するサポートセンター。ワークショップにはそこの社協職員3人が参加し、今後もワークショップを行いたいと、お昼の時間帯も事務所でDVDを見ながら練習をしていた。
和野っこハウス
*本記事は、「山の家」とは関係ありませんが、ブログ管理人の活動として掲載しております。

2013年2月15日金曜日

行く人、来る人


県外の新規住宅支援制度の打ち切りで、
年末に雇用促進住宅の札幌厚別区桜台団地に
滑り込みで申し込んだ方からメールが来た。

「札幌へ引っ越しする日が決まりました!
 4月17日仙台港よりフェリーに乗り、
 翌18日に苫小牧に到着予定です。 」


引っ越しの日程が決まってよかった。
そのころは雪も溶けて暖かくなっている。

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山の家に滞在していたAさんは
1か月の滞在期間が終わり
「帰りたくない」と言いながら
明日、飛行機で帰る。

滞在中に待望の妊娠が判明、
よろこびながらも
連日のつわりで
気分が悪そう。

秋の山の家に滞在したKさんは
今回は、北区あいの里のシェアハウス希望で
13日に到着。
昨日は、この2家族の歓送迎会を
あいの里で行った。





2013年2月12日火曜日

春近し

山の家は相変わらず、雪が降ったり止んだり。
でも、日の光、気温、雪質など、
確実に春が近づいていることを感じさせる今日この頃だ。

「春」
心の奥底が胎動を開始し、
気持ちも先の時間へと引っ張って行く、
不思議な力を持っている。



なっちゃんのしいたけ栽培


辰田さんが「しいたけ栽培キッド」を買ってきて、
2月初めに、
山の家滞在中のなっちゃんが、
一日、水に浸した原木をセットし、
しいたけ栽培を始めた。(写真上)

すると、1週間もしないうちに芽を出し、
立派なしいたけに成長し始めた。(写真下)





2013年2月3日日曜日

伊勢うどん

伊勢神社外宮近くのお店で、はじめて伊勢うどんを食べた。おいしかった。伊勢うどんは伊勢市を中心に食べられるうどん。 たまり醤油に鰹節やいりこ、昆布等の出汁を加えた、黒く濃厚なタレを、徹底的に茹でてコシをなくして極太麺に絡めて食べる。麺を茹でる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でるそうだ。真っ黒いタレは意外とあっさりしている。伊勢で育ったUさんは伊勢うどんが当たり前で、つゆのうどんを見て、最初はビックリしたとか。(写真は、JR伊勢市駅で買ったおみやげの伊勢うどん)

避難者の終わらない苦しみ(三重県伊勢市から)


 「うけいれ全国」運営会議の翌日、四日市市から電車で1時間ほどの伊勢市で「市長と避難者の懇談会」が行われた。
 運営会議に参加する私は、そのあと伊勢市に足を伸ばして、一昨年の札幌協働福祉会主催の夏休み保養(仁木町“山の家”)に参加し、その後伊勢市に避難したT君に会いにいくつもりだったので、懇談会にも出席させてもらうことにした。T君のお母さんに電話するとお母さんもその懇談会に出席するとのこと、実にいいタイミングで再会の場が持てることになった。
 この懇談会は、保養キャンプや避難者の受入れ、被災地への野菜の支援などを行っている「ふくしまいせしまの会」(代表・上野正美)が主催した。
ワイシャツ姿が鈴木市長
伊勢市長って、どんな人?
 昨年も懇談会を実施したという伊勢の鈴木健一市長はどんな人か調べてみると、まだ1期目で30代の若い市長。「脱原発をめざす首長会議」のメンバーで、避難者支援にも積極的な政治家だった。
 会場は伊勢神宮の外宮前にある市民活動サポートセンター。懇談会には4家族8人の避難者と「うけいれ全国」側は私、北九州“絆”プロジェクトの谷瀬さん、「福島の子どもたち香川へおいでプロジェクト」の伊藤ご夫妻が参加した。
 残念ながらT君は部活があるので来れず、お母さんから携帯画像でT君の少しスリムになった最近の様子を見せてもらった。 

4家族8人の避難者が出席
 懇談会では、避難者1人1人が日頃思っていることなどを話された。
 千葉県東葛地区から避難した方は「ベランダで線量が1.5μs/hあった。主人の理解が得られず母子で避難してきた。1年経つが、子どもが病気のときなど一人で子どもの面倒をみるのがつらい時もある。食べ物や空気など不安はないが、住民票を移していないので、託児を断られた」。

実家に避難、両親からは「帰れ」と言われ・・・
 同じ千葉の柏市から避難された方は「妊娠中だったので昨年8月に夫の実家のある伊勢に避難してきた。実家の両親からは早く帰れと言われるが、柏では公園や学校の除染がやっと始まったばかり。二重生活でお金の方が大変」。同席した夫からは「自分も避難できればと思うが転職するのは賭けのようでできない」。

先のことを考えると眠れない
 郡山市から避難された方はお子さんが3人。「原発の爆発の時、私が働いていたので、水汲みで外に子どもたちを3時間も並ばせてしまった。部活で外を走ったりして、湿疹や鼻血、喘息がひどくなった。髪の毛が抜けたり、夏休みに高熱を出したり、急性中耳炎にかかったり。伊勢に避難して本当に良くしてもらった。上の方の息子は部活のバスケができる学校に行かせてもらい、私の働き口も見つけてもらった」。
「甲状腺検査の結果、嚢胞(のうほう)が見つかった。私も石灰化したものが2個。東神戸の診療所に母子4人で放射能検査を受けに行ったが、交通費等が4万円。結果を聞きに行くのに2万円。年2回で12万円にもなり、負担が大きい」。
「私はうつで仕事を休んでいたが、明日から病欠期間が切れ無給になる。生活保護以外に避難し困っている人への対応ができないか。働いていた娘も原発関係の報道に過敏に反応し、過呼吸になったりして、いまは働けなくなっている。3.11以降、テレビも見たくない。これは経験した人でないと分からない。知らない土地にポツンと来て、孤独感や淋しさに襲われることがある。住宅の提供も来年で終わり、先のことを考えると眠れない。明日から仕事も無理をしてでも出ないといけないと思っている」。

安心できる時間がない
 一昨年10月に避難した方は、夫が危機感を持ち伊勢で仕事を見つけ、夫主導で避難移住してきた。「福島の知り合いから、避難したのだからもういいのではないかと言われるが、安心できる時間がない。子どもも慣れたとはいえ、まだ向こうの夢をみるなど揺れている。甲状腺検査を避難先でやっていただければありがたい。福島県から5分で終わるからと案内が来たが、福島まで行けない。神戸の病院を知って、検査を受けてきた」。

素早く市長から避難者へ回答
 避難者の終わらない苦しみを切々と訴える1時間だった。鈴木市長はしっかりとメモをとりながら耳を傾けていた。
 数日後、上野さんから「今日、懇談会での避難者からの質問事項に、市長から私の携帯へ返事をいただきました。対応が早くよかったなあとありがたく思います。これからも市長と連絡を取って避難者の住みやすい伊勢にしていけたらうれしいと思います」とのメールをいただいた。



かつては公害で名を馳せた四日市市

 うけいれ全国の運営会議があった三重県四日市は、人口30万人の県下最大の都市だが、県庁は津市にある。コンビナートからの排煙による「四日市ぜんそく」で有名だが、法規制がすすんだ今では大気の状態も良好とのこと。

ホテルから見えるコンビナートの煙突群

三重県での「うけいれ全国」運営会議に参加


 全国の受入れ団体と被災地で暮らす人々、そして各地に避難している人たちをつなぐネットワークとして、昨秋発足した「3.11受入全国協議会」(略称/うけいれ全国)の第5回運営会議が2月26日、三重県四日市市で開かれた。私は協議会の構成メンバーである「むすびば」の立場で参加してきた。

 会議では、新規の公的住宅支援が年末で打ち切られたことによる今後の対策が話し合われた。四国四県は災害救助法に基づいているのではなく自治体独自にうけいれをしている。また四国二県は受け入れ対象を福島県に限定していない。岡山県は打ち切ったが岡山市は延長したなど、独自措置を講じている自治体もあり、全国的な状況を調査し、地元の自治体に独自措置を働きかけていくことを確認した。
 公的支援の打ち切りにともない、今後必要になってくる空き家や社宅の提供については、三重県中小企業同友会から貴重な報告が行われた。三重では、生活支援はボランティア、住宅や就労支援は企業側と役割分担し、使われなくなった社宅などを無償提供している。中小企業は動きやすく、社宅提供でのコスト面の負担も少ない。中小企業家同友会は全国にあるので、各地で働きかけてはというアドバイスもあった。

 うけいれ全国では、2月23日に福島県いわき市、24日栃木県那須塩原市で初めての保養相談会を実施する。NHKスペシャル「空白の初期被ばく」でいっそう明らかになってきたように、汚染はこれまで注目されてきた「福島県中通り」ではなく浜通りから宮城県方面と関東方面に拡散している。いわき・那須での相談会はとても重要な取り組みになる。
 今回、地元でお手伝いしてくれる「いわきの子どもを守るネットワーク」の代表の團野和美さんは、「おもいっきり夏休み」に参加している團野3兄弟のお母さん。


2013年2月2日土曜日

和歌山から2次避難の母子が到着

 今日、苫小牧港に和歌山市からの2次避難の母子が到着した。名古屋から乗船したので、2泊3日の長旅だ。あいの里のシェアハウスに住むことになる。
 もともとは東京世田谷区に住んでいたが、フクイチ事故の後、いま6歳と3歳の子どもたちに被曝症状が出た。皮膚のただれ、喘息のような咳、眼の下のクマ、突然身体のどこかが痛んだり、心臓の動悸などの症状が出た。お母さんも突然、皮膚から出血したり。
 原発事故の年の11月に和歌山に避難した。ところが、今度は大阪府と大阪市が瓦礫の受入れを行い、この2月から本格的な焼却処分を始めることから、2次避難を余儀なくされた。
 子どもたちにとっては初めての北海道だが、長旅の疲れも見せず、元気だった。今日は温かく、空も晴れ渡り、アスファルトが露出した道路状況も申し分なく、シェアハウスまでの道のりも順調だった。